工学系学生のための ヒルベルト空間入門

何とか読み終えることができた。本書の「まえがき」には以下のように書かれている。

本書は数学の専門書ではなく,量子力学を学びたいと望む工学系の学生が,その量子力学を理解するために必要と思われる最小限の内容を展開した解説書である.

僕は高校3年の夏休みまでは物理学科を目指していたが、「物理や数学ではメシは食えん」と高校の先生に言われ、軟弱にも工学部に変更した。幸か不幸か、大学に入ってパソコンをいじりだしたら、それが楽しくて仕方ない。物理への興味も徐々に薄らいでいった。教養部で習った線形代数も高校で勉強した行列に毛が生えた程度くらいの認識しかなく面白くもなかった。線形代数量子力学で必要になるからしっかり勉強しておくようにとアドバイスしてくれる先輩もいたが意味もわからず、ふ〜ん、くらいの感覚で、全く能天気な学生だった。

そもそも、工学部の数学なんて実用的な観点からの講義でしかないから、フーリエ展開やラプラス変換とかも数学的な深い意味は知らずに計算上のテクニックというイメージしかない。複素関数論の講義もあるにはあったが、コーシーの定理はあくまで積分を解くための道具であり、その先にある楕円関数論はおまけ程度である。群論や数論、代数幾何などの数学らしい数学は一切ない。

物理についても同じだ。せいぜい電磁気学でマクスウェルの方程式を理解して、モデル化した同軸ケーブルを流れる電流の磁界を計算するなど泥臭い話であったし、量子力学シュレディンガー波動方程式を井戸型ポテンシャルなど特定の境界条件で解を求めるようなレベルの話しかなかった。相対論もなければ場の量子論もない。

本書はそんな工学系の学生向けに、工学系の先生がヒルベルト空間とはどんなものかをイメージが伝わるように非常に分りやすく丁寧に解説した入門書である。もちろん、読者は学生じゃなくて社会人でもよい。

特に工学系の学生にとってそれら,すなわち,量子力学最適問題情報科学を学ぶのにやはりヒルベルト空間上の線形作用素の理論を知っているのといないとでは理解の速さ深さ,さらには創造力の養成に相当の違いがでてくるのではないかと思われる.(p.39)

まさにその通りだと思える。プログラミングの分野で似たようなうまい譬えが見つからないが、強いて言えば、C言語しか知らないプログラマと代数的仕様記述や抽象データ型を知っているプログラマ、もっと平たく言ってしまえば、Javaのinterfaceを使いこなせるプログラマとでは、プログラムに対する考え方に相当の違いがあるということにも近い。

本書を読み終わってみて、ヒルベルト空間とは何かと一言で言ってみろ、ともし聞かれたとしても「ノルムが内積で定義された完備な空間」ということが自分の言葉で言えるようになった。しかし、もちろん理解したなどとは到底言えない。雰囲気がなんとなくわかったというレベルである。ちょうど、新しいプログラム言語を覚えるときに、本を読んでHello World相当のものがわかった、というレベルに近い。その言語で実際にはまだ1行もコードを書いていない。実際にコードを書くと自分が全然理解していなかったということを知ることになる。自由に使いこなすことができるようになって、初めて理解したと言える。どのくらい理解できるようになったのか、本棚の奥で眠っているかつて挫折した量子力学の本をもう一度トライしてみたくなった。

本書はB6サイズのソフトカーバで145頁と大変コンパクトである。そのため、通勤電車の中で立っていても片手に持って読めることができる。そのお陰で最後まで読むことができたのである。

アインシュタインやボーアだって知り得なかったことを、その後の時代に生まれてきたというだけで、本人が努力させすれば知ることができる。これって本当はすごいことじゃないかと思う。