電車の中で聞いたちょっとイイ話

僕は通勤や帰宅電車の中では、椅子に座れてパソコンを広げられる程度に余裕があれば、だいたいにおいて音楽プレイヤーを聞きながらキーボードを叩いている。この文章もこうして電車の中で書いたものである。

先日、うっかりプレイヤーのバッテリーを充電するのを忘れていたため、隣に座っていた熟年女性の2人の会話が耳に入った。おしゃべり好きの2人らしく、延々と同じ内容を繰り返し、話の内容も前後に行き来していため、途中から聞いていたが、全体を把握することができた。話の道筋をまとめると以下のような内容である。

それは、あきれるくらい世間知らずの純真な心をもつ中年男の純愛物語であった。

その男は、仕事一辺倒で女性には目もくれず、まじめに働いてきた40歳そこそこの社会的にも地位のあるしっかりした男である。連日の深夜におよぶ残業が重なり、とても疲れた状態での帰宅途中、「マッサージ」という看板が目に入った。今までマッサージを受けたことはないが、どうにもこうにも疲れていたため、今日はちょっと贅沢をして体をほぐしてもらおうと、建物に入ったそうだ。最初は戸惑ったが、初めて入るところだし、自分が知らないだけで、そういうものなんだろう、と特に疑問も持たずサービスを受けた。すると、本当に体がほぐれ、身も心もゆったりし充実した気分になり帰宅したという。

2週間後、再び疲れがたまり、またあの「マッサージ」を受けようと思い立ち、同じ店に行き前回もっらた名刺を差し出してその女性に会った。女性の方は男の様子がちょっと変わっていたため印象に残っており、また来たことを意外と感じたが、淡々と仕事をこなした。

そんな感じで何回か通ったあるとき、男が女性を食事に誘った。あなたのおかげで仕事にも張りがでてきて、ぜひ感謝の気持ちとしてご馳走したい、という。食事の席で、男が結婚を前提としたお付き合いしたいと切り出した。女性は驚いた。普段のその女性の考えなら、いい金づるができたと喜び、適当に付き合ってお金をもらうだけもらって逃げるという行動をとったであろう。しかし、相手の男は真剣であり、少年のような目をしていた。騙すのはあまりにもかわいそうだと思った。そして、あなたの通っている店は、世間ではこれこれこういうところで、私はそこで働くそういう女だ、ということを説明した。女性はそれで男が目が覚めて考えを変えるのではと思ったが、男はちょっと驚いたものの、女性の言っている意味を正確に捉えることはできなかった。

男にとって世の中にそのような目的の場所があるということ自体が半信半疑だった。男はその後、同僚からいろいろ教えてもらい、女性が言ったことの意味を改めて知った。しかし、男は女性をあきらめることはなく、周囲の人の反対を押し切り、この奇妙な「マッサージ」通いを半年ほど続けた。

そして、驚いたことに2人は結婚した。披露宴の席での最後の新郎の挨拶で、男は結婚に至った経緯を説明したそうだ。会場はざわめきだったが、新郎の真剣な話に耳を傾けていると、会場はしんと静まりかえった。横で新婦のすすり泣きが聞こえる。中には涙する知人や親族の姿もあった。新郎が話し終えると会場全体が拍手喝采の渦に包まれたそうだ。

僕はこの話を聞いて、そのような男がこの世にいるということを嬉しく思い、また、その女性がそのような男と出会ったということ自体を嬉しく思った。運命などというものは信じないが、全てのものには意味があり、何かの目的のために準備されているという思いがした。

気がつくと、キーボードを叩く手はいつの間にか止まったままで、2人の幸せを心の隅で祈っていた。